こーちゃんの日記

22歳。今春から金融機関で社会人。本気で楽しい仕事、人生を追い求めています。

『こんな僕でも社長になれた』を読んで

新装版 こんな僕でも社長になれた

新装版 こんな僕でも社長になれた

 

 家入一真
1978年12月28日生まれ。
2001年10月23日、22歳で起業。結婚。

しかし前半は引きこもり、高校中退。大検取得後、2度の大学受験も出願忘れと寝坊により受けられず。そして家計も貧しくデザイン会社に就職。そこでウェブデザインに興味を持ち、後に技術的知識を深めるためコンピュータシステム会社に転職。ちょうどネットで知り合った当時女子高生だった奥さんと出会い結婚。

自分の両親が働き詰めで苦労していたのを背景に、
子供の誕生の瞬間、過ぎていく1日1日を、一番近くで見ていたい。
という凄く純粋な理由から起業を決意。そして現在のpaperboy&co.へ。

そこで僕が読んで感じたことは二点。

一つ目。自分が来年、家入さんが起業した年を迎えること
。さらに比較して読んでいると、ずっと先のことだろうと思っていましたが、来年に子供が居てもおかしくない歳なのかと思うと妙にリアルさを突き付けられました。まだまだ学生気分の自分に本気で大人にならなければならないと迫られました。あと一年で自分に何ができるだろうかという問いが大きな収穫です。何事も果敢に挑戦していきたいと思います。

二つ目。スティーブジョブズの演説を思い出したこと。

スティーブ・ジョブス 伝説の卒業式スピーチ(日本語字幕)

“You can’t connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future. You have to trust in something — your gut, destiny, life, karma, whatever. This approach has never let me down, and it has made all the difference in my life.“

 

”先を見通して点をつなぐことはできない。振り返ってつなぐことしかできない。だから将来何らかの形で点がつながると信じなければならない。何かを信じなければならない。直感、運命、人生、カルマ、その他何でも。この手法が私を裏切ったことは一度もなく、私の人生に大きな違いをもたらした。”

スタンフォード講演に感動した全ての人へより引用

演説では大学を中退して潜っていたカリグラフィーの何の役にも立たないと思っていた授業でさえもMacの美しいフォントに役立ったと解説されています。

そして、家入さんも似たような何かを感じました。高校から引きこもりになり「ネット通信」と出会い、「プログラミング」にも興味を持たれました。また、母親に何気なく連れていかれた山田かまちさんの絵画展で絵の生命力に感動し「アート」にも引き込まれました。そして大検試験のことを知り芸大を受験しようとするもお金が無く「新聞配達」の仕事を始められました。そこでは苦手だった対人面の不足が補われ、世の中には色々な価値観の人がいることに気付かされます。しかし、二度の「大学受験は失敗」。デザイン会社、コンピューターシステム会社へ「就職」することになります。同時にネットで現在の「奥さんと出会われ」ました。とても真似できない人生です。

「ネット通信」「プログラミング」「アート」「新聞配達」「大学受験の失敗」「就職」「奥さんとの出会い」。全てが当時は点でしたが、今では一本の線として繋がっているような気がします。絶妙なバランスの元に、それらがあって現在のpaperboy&co.家入一真が存在しているのだと思います。

前半では普通ならどうせ自分の人生なんてと諦めてしまいそうです。ここで学ぶべきことは、日常の全てに平等に小さなチャンスが転がっていて、それを一つ一つ打っていけば何か大きなチャンスに繋がるかもしれないこと。興味があっても無くても後で何か意味があると思って目の前のことに一生懸命になること。家入さんはこんな僕でも社長になれたんだ!とおっしゃられていますが、何もしないということはなく、何かには一生懸命になられていると思います。そして少しずつ殻を破っていかれた勇気もあります。

いかにも啓発書と思うかもしれませんが、なにより、もしあの時やっていれば今できたのに…なんて後悔をしてからでは取り返しがつかないと思いました。僕も最近そんな後悔する出来事があったので尚更ズシンと心に響きました。日常の全てにおいて自己研鑽することの大切さを改めて言語化できたことが二つ目の収穫として終わりとします。